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1809・・・1996・・・2001 小畑受信所
2001.09取材 |
| ↑通信室も所在する局舎。 多くの通信士、無線技士が 所属し、世界中の船舶との 交信はここで行われた。 CW、電話交信などは15km離れた椎柴送信所から送信する。
畑の中に点在するアンテナ群。→
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現在、無線局局舎を利用して 市民センターに立替中。 イベントホールなどに生まれ変わる。 参考リンク |
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←かつてはアンテナの立っていたで |
| バス停の名前に歴史は残っている。 | ![]() |
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1979年当時の銚子無線(椎柴送信所)運用周波数。 |
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1908年日本初の海岸局として開局以来、戦前は日米回線、報時放送、気象通報、無線標識(現在は犬吠崎で運用)などの業務を行ってきた。 |
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| 以下、「銚子無線史」(昭和54年発行)「業務の変遷」より抜粋 わが国で無線による通信が最初に行われたのは、関東平野の最東端にあたり、はるか外洋を望む銚子の夫婦が鼻に設置された銚子無線電信局である。その当時は、銚子にはまだ電灯もついていない頃で、火花式送信機と鉱石機によるいたって規模の小さいものであったが、船舶に対する唯一の通信手段として、時代の先端を行く脚光をあびた事業であった。しかし電波の到達距離は限られており、四囲の海洋をカバーするため長崎、角島、潮岬および落石局等次々に海岸局が開設せられ、お互いに1通でも多く、少しでも電波の到達距離をのばそうと日夜奮励し競い合ったと伝えられる。 その後、船舶に対する通信は一般電報の取り扱いだけでなく、国内における重大ニュースや暴風等の情報を伝達し随所で好評をはくし、無線の価値が高められ、さらに報時放送、暴風雨警報、気象電報、船舶航行警報、衛生情報放送等多方面の情報伝達手段として使用されることになった。大正時代に入り、真空管が使用されるようになって送受信機も飛躍的に改良せられ、より遠く、より多種の情報を伝達するよう、使用する電波の帯域も中波から短波帯へと広げられて行き、昭和3年短波帯を使用した運用がはじめられた。 一方、より遠距離通信を図るため、送受信設備を分離して通信効率を上げるべく通信所と通信設備は高神村(現在の小畑新町)に移転された。以後、短波帯の開発は急ピッチで進められ、南氷洋捕鯨船団に対する通信等ますます増える需要にこたえるため、夫婦が鼻にあった川口送信所は発展的解消し、現在の椎柴送信所が開設されたのである。 |
しかし昭和16年、太平洋戦争が勃発し捕鯨通信が禁止されたのをはじめ、船舶に伝達されていた各種情報放送等も規制を受ける等、電波管制が強まり、電波の発射が極力抑制された。昭和20年には銚子市の大空襲にあい通信施設も一部被災し、さらに大本営の疎開に合わせ、無線機器も長野に一部移転するはこびになったが、やがて終戦となり、戦後はGHQの指示により通信の運用も次第に変貌を重ねていくことになる。−中略−昭和の後半になって、南極観測に伴う内地との通信確保のため、当所の職員も数度にわたる越冬隊員として参加しており、他方海運界や遠洋漁業の発展に伴い公社でも海岸局整備計画がたてられ、可成りの大規模工事が行われた。これにより通信所、受信所とも大幅な改善がほどこされ、現在の設備体制が確立され、昭和43年には小笠原諸島の返還に伴い、これとの通信確保のため短波による市外電話回線が開通、その後回線数も増加して、国内電話網の一端を担うことになった。このように多角的に発展してきた中短波業務ではあるが、マイクロ回線や移動無線等、無線通信の飛躍的発展の時代の流れにそって再度見直しすべく短波近代化計画がうちたてられ、現送信所のほど近くに無人保守による第二送信所が近年開設せられ、現在に至っている。 |
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